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― 第一譚 ―戸ノ口原の夜泣き石

福島県の会津会津地方・戸ノ口原に「夜泣き石」と呼ばれる不思議な石があります。
その石には幼子の足跡が残り、夜ごとに泣き声が聞こえるという伝承が語られています。
これは、私自身が体験してしまった“その夜”の出来事です。


目次

導入

 これは、私の祖母がよく話していた会津の伝承であり、そして私自身が体験してしまった出来事です。

 会津若松の町から少し外れた戸ノ口原という場所に、「夜泣き石」と呼ばれる石があるのをご存じでしょうか。
 幼子が置き去りにされ、泣き叫んだ声が石に宿ったと言われ、今も子供の足形が残っていると噂される、不思議な石です。

 私は大学生の頃、友人とふたりでその石を探しに行ったことがあります。夏の盛りでしたが、会津の夜は山からの風が冷たく、草むらの匂いが濃く漂っていました。国道の車の往来が遠くに聞こえるだけで、あたりには人影もなく、街灯の明かりさえ心許ない場所でした。

 友人は軽い気持ちで肝試しのように出かけたのですが、私は正直、行き先を聞かされたときから胸の奥に小さな重さを感じていました。祖母が幼い頃から繰り返し語っていた「夜泣き石」の話が、妙に頭にこびりついて離れなかったのです。


石との遭遇

 やがて草むらの奥に、腰の高さほどの石がひとつ、月明かりに浮かび上がりました。表面はざらついて苔むしており、ただの自然石のようにも見えます。けれど、正面にまわったとき、私は息を呑みました。

 ――小さな足形。

 掌ほどの大きさのくぼみが、二つ並んで残っていたのです。雨に削られたものかもしれない。しかし、その形はあまりにもはっきりしていて、まるで幼子がそこに立ち尽くしていたかのようでした。

 「なあ、見ろよ。これ、ほんとに子供の足跡じゃないか?」
 友人が興奮気味に声を上げ、石を懐中電灯で照らしました。光の輪の中で、足形は不気味なまでにくっきりと浮かび上がります。


最初の異変

 その瞬間、私の耳に――泣き声が届きました。

 最初は風の音かと思いました。夏草がざわめき、遠くで犬が吠える声に紛れた気のせい。そう言い聞かせたのですが、耳を澄ますほどにはっきりと、それは確かに「子供のすすり泣き」に聞こえてきたのです。

 ぞくりと背筋を冷たいものが走り、足を一歩退こうとしました。
 ……けれど、足が動かない。

 土に根を張ったかのように、靴底が地面から離れなくなっていました。

 「……動かない?」
 声に出した途端、友人がこちらを振り向きました。だが彼はまるで気づいていない様子で、足形を夢中で覗き込んでいます。

 私だけが、この奇妙な感覚に捕らえられている。
 石の前で泣く声は、次第に近づいてきて――それが自分の真後ろから響いていることに気づいたのです。


怪異の顕現

 泣き声は、もはや耳元で響いていました。
 息を呑むたびに胸の奥が冷え、汗は流れるのに体温は奪われていくようでした。

 「やめろ……」
 震える声でそう呟き、無理やり足を動かそうとしました。だが靴底は地面に吸いついたままびくともせず、膝だけが不自然に震えました。

 次の瞬間、石の影が揺れました。

 街灯も月も動いていないのに、黒い影だけがゆらゆらと形を変え、やがて小さな子供の輪郭を形づくったのです。
 背丈は私の腰ほど。
 頭を垂れ、肩を震わせ、石の前で泣き伏すような姿。

 「……おい、何してんだ?」
 友人の声が、はるか遠くから聞こえてくるようにぼやけました。どうやら彼には、その姿が見えていないらしい。
 懐中電灯の光は確かに石を照らしているのに、私の目には“もうひとつの像”が重なって見えていました。

 子供の影は顔を上げました。
 光に照らされてなお、目鼻は闇に覆われて判然とせず、ただ口元だけが大きく開き、泣き声と笑い声が混じったような異様な音が漏れました。

 ――あの声は、間違いなく人間のものではない。

 恐怖が限界を超えたその瞬間、足を絡め取っていた力がふっと緩みました。
 私は転ぶように後ずさり、草むらに倒れ込みながら、必死で目を閉じました。

 ……目を開けたときには、もう朝の光が差していたのです。


結末

 気がついたとき、私は自分の布団の中にいました。
 どうやって戻ったのか、まるで記憶がありません。友人に後で尋ねても、彼は「お前が急に青い顔でしゃがみこんだから、車に乗せて帰った」と言うばかりで、泣き声も子供の影も何ひとつ見なかったと首を振るのです。

 しかし――私の両足首には、小さな手形のような痣が、いくつも浮かんでいました。
 それは数日で消えましたが、冷たい指が絡みついた感覚はいまだに忘れられません。

 戸ノ口原の夜泣き石は、今もあの場所に残されています。
 石の上には子供の足跡に似た窪みがあり、地元の人々は靴を供えて慰めてきたと言います。
 あの夜に聞いた声は幻だったのか、それとも……。
 答えを確かめる勇気は、もう私にはありません。


あとがき

 「夜泣き石」の伝承は、福島県会津地方の戸ノ口原に実在する民話をもとにしています。
 幼子が石の上で泣き叫び、その足跡が石に残ったとされる説。狐に化かされた話として語られる説。玄翁和尚が怪異を鎮めたとする説。いくつものバリエーションがあり、今も土地に語り継がれています。

 夜泣き石は会津に限らず、静岡や群馬など日本各地に点在し、「子供の霊」「母子の情」「供養の信仰」と深く結びついてきました。
 石に供えられる小さな靴や玩具は、子供の魂を鎮めるためのものであり、村人たちが怪異を恐れながらも弔いを続けてきた証です。

 本作は、その会津の伝承を脚色し、現代の一人称体験談風に仕立てた創作怪談です。
 しかし、石が今も実際に残り、地元では噂が途切れていないのもまた事実。
 読者のみなさんが会津を訪れるとき、もし戸ノ口原を通ることがあれば――夜には決して立ち寄らないことをお勧めします。

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